御由緒・御寶物

御由緒

相模国の中原(チュウゲン)に位置する有鹿郷(現在の海老名市)の誕生と発展を物語る「総産土神」(ソウウブスナガミ)であり、神奈川県で最古の神社である。

生成期

太古の昔、相模の大地は海底にあったが、次第に隆起し、森林を中心としたみでなす大地が形成された。縄文の頃より、有鹿谷にある豊かな泉は、水神として人々の信仰の対象となった。この泉の流れ落ちる鳩川に沿って農耕生活が発展し、有鹿郷という楽園が成立した。この郷の水田(海老名耕地)における農耕の豊穣と安全を祈って、「水引祭」が起り、有鹿神社はご創建されるに至った。

発展期

奈良から平安初期まで、海老名耕地という大墾田を背景として、有鹿郷の中心に国府がおかれていた。国府の守護をする神社として有鹿神社は霊験あらたかな神社であり、天智天皇3年(664)、国家的な祭礼を行い、また、延長5年(927)、延喜式の制定により式内社に列せられた。広大な境内には美麗な社殿が建立されており、また、天平勝宝8年(756)、郷司の藤原廣政の寄進により、海老名耕地五百町歩が神領となった。

変動期

有鹿神社は貞観11年(869)11月19日、従五位上に昇階し、数次の昇階を経て、鎌倉の永徳元年(1381)、正一位の極位に達した。平安末期から室町中期まで、海老名氏と地名を名乗る武士団は、海老名耕地を支配するよりどころとして有鹿神社を崇敬し、そのご神域にあたる国庁跡に居館を構えていた。

応永23年(1416)、海老名備中守持季(出家の後、宝樹沙弥)は社殿を修理し、宮鐘を奉献した。しかし、室町の二度にわたる兵乱の災を蒙り、海老名氏は滅亡し、有鹿神社も美麗な社殿をはじめことごとく灰燼に帰し、広大な社領も略奪された。

再生期

天正3年(1575)、海老名耕地の用水を守る「水引祭」が復興し、相模国五之宮、海老名郷総鎮守として、海老名郷に属する上郷、河原口、社家、中野等の人々から崇敬されていた。天正19年(1591)、徳川家康より朱印十石の寄進を受け、また、元和8年(1623)、海老名郷の領主高木主水の内室により、社殿が再建された。

新生期

明治6年(1873)、有鹿神社は県社に列せられたが、海老名の総鎮守として郷社にとどまり、明治43年(1910)、神饌幣帛料供進社に指定された。第二次大戦の後、宗教法人として神社本庁の傘下に属する。

氏子・崇敬者の崇敬心が篤く、宮鐘の再鋳と鐘楼の再建、手水舎の再建、天神社の創建、社務所の新築、玉垣の築造、社殿扉の修理、中宮祠の再建など、次々と境内・建物等の整備が進められた。

有鹿神社は、現在も海老名市はもとより、神奈川県の要(へそ)として、人々から篤い崇敬を受け続けている。

 

御寶物

本殿

社殿は、「本殿」をおおう「覆い殿」、「幣殿」、「拝殿」の三棟一宇からなる。本殿は、春日造、檜皮葺の5.6平方メートルであり、元和8年(1623)の再建以来、数次の修理を受けつつ、美麗な姿を今に留める。海老名市より重要文化財の指定を受けている。

天井の龍絵

拝殿の天井には、万延元年(1860)の頃、藤原隆秀(近藤如水)により豪快で精緻な筆法で龍の絵図が描かれている。これは海老名市より文化財の指定を受けている。これを模写した絵馬も作成されている。

宮鐘

応永24年(1417)、宝樹沙弥により、和泉権守恒光作の宮鐘が寄進されたが、明応4年の地震で破損したので、元禄2年(1689)再建された。250年にわたり、朝夕に美しい音色を海老名耕地に響かせた。宮鐘は、第二次大戦の末期に供出され、昭和53年(1978)再建された。

神輿

現在倉庫に保管されている古い神輿は、昭和13年(1938)7月の修理と記されているが、200年を超えるものである。

第二次大戦後、新しい神輿が製作され、現在も用いられている。

由緒書

永和3年(1377)の「有鹿明神縁起」と天正13年(1585)の「同続縁起」であり、現存している。

現存のものは、平成13年(2001)の『お有鹿様と水引祭』である。